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オランダにおける戦い (1940年) : ウィキペディア日本語版
オランダにおける戦い (1940年)[おらんだにおけるたたかい]

オランダにおける戦い(オランダにおけるたたかい、:''Slag om Nederland'')は、第二次世界大戦初期における、ドイツ軍による低地諸国ベルギールクセンブルクオランダ)とフランスへの侵攻作戦黄色作戦、''Fall Gelb'')の一部である。
戦闘は、1940年5月10日から1940年5月17日まで行われた。ドイツ空軍によるロッテルダムへの爆撃後に、同様の惨劇が他の都市に及ばないように、オランダ軍が降伏と言う選択を行なった。その結果、ナチス・ドイツが勝利しオランダを占領した。オランダ政府はイギリスに亡命し亡命政府を作った。
== 背景 ==
イギリスフランス1939年ドイツのポーランド侵攻後、ドイツに対して宣戦布告を行なった。しかし、両軍ともその後の長い戦争に備えて戦力の充実を図っており、その間はヨーロッパでの地上作戦は起こらず、これをまやかし戦争と呼んでいた。
ヒトラー10月9日低地諸国への侵攻作戦を作成した。これは、オランダをイギリス攻撃の基地として使用し、英仏からの同様の攻撃に対する緩衝地帯を作成し、ルール工業地帯への脅威を減らすことが目的であった。
オランダは第一次世界大戦においては中立であったが、感情的にはドイツ寄りであった。ドイツとの戦争は過去に行なわれたことがなく、1871年のドイツの統一以前でさえ、ドイツの領邦との戦争は非常にまれであった。一方、西部戦線での主要な連合国であるフランスイギリスとの戦争は、歴史的には頻繁に生じていた。特に、当時イギリスが南アフリカ(オランダ人の入植地)でボーア人(オランダからの移住者の末裔)に対して行っていたことには、悪感情を抱いていた。それらの歴史が、英仏へのマイナスイメージの背景となっていた。
ドイツに好意的であるという状況を表すものとして、第一次世界大戦直後の1918年に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオランダへ亡命した事件がある。オランダは、皇帝を保護し、皇帝が死ぬ1941年までドールン城(Huis ter Doorn)と呼ばれる城を与えた。ただし、オランダは他の多数の亡命者も匿っており、このこと自体は特に特別なものではなかった。
ヒトラーが権力についた際、オランダは再武装を開始したが、その速度は他の国と比べ非常にゆっくりとしたものだった。政府はナチス・ドイツを脅威として見ていなかった。この原因は、ドイツに対する感情も含め、ドイツを怒らすことを望まないと言う考えによって生じたものであり、それより、オランダ経済に大きな打撃を与えた世界恐慌への対策の方が重視され、厳しい予算上の制限によるところもあった。
1939年9月のポーランド侵攻とその後の第二次世界大戦が始まった後も、オランダはその25年前と同じく中立を保持したいと望んでいた。この中立を確実にするために、オランダ軍が動員、編成された。10億ギルダー以上もの大金が戦力の装備を整えるために利用可能となったが、オランダ人は新しい装備の多くをドイツに発注したため、ドイツとの戦争時にはこれらの装備を手に入れることが困難であることが想定された。
ドイツとフランスはそれぞれの国境をマジノ線ウェストウォールの様な要塞線で固めており、低地諸国はマジノ線の様な要塞線に防備されていない国境をフランスとドイツという2つの強国にさらしていた。この事実は、これら低地諸国が、両陣営にとって、攻撃の際の通行ルートになることを意味していた。英仏は必ず起きるドイツ軍の侵攻を待つべきではないと低地諸国の説得を試みた。しかし、1940年1月にドイツの航空機が墜落し、ドイツ軍の攻撃計画がベルギーの手に渡った後でも、ベルギーとオランダはドイツによる攻撃時の対応に関してはフランスと交渉を持ったものの、明確に連合国に参加することに関しては拒絶を行なった。英仏は、兵力が充実した後、1941年夏にドイツに対する攻勢をかけることを計画していた。この時、低地諸国が英仏協商側に参加しない場合には、その中立を侵すことも視野に入れていた。
1940年4月9日、ドイツ軍がノルウェー侵攻した(この時ノルウェーとデンマークに対して宣戦布告は行われなかった)。これは、英仏とドイツの対立が中立国において発生したものであり、オランダは、2つの敵対する国家にはさまれた自分たちの国が対立と無関係にいることが不可能であることが分かった。その時点で、侵攻作戦に対する防衛策を考え始めたが、それは時期として遅すぎ、それでもなお大半の市民は、自分たちの国が戦争に巻き込まれないと言う幻想を抱いていた。
この様なオランダの態度は、英仏側にとって、非常に優柔不断なものとして写っていた。しかし、当時のオランダの指導者は、第一次世界大戦において、失われた人命の多さから、可能な限り自分たちは中立のまま、戦争を回避することを希望しており、この態度はその努力を行なっていた結果から生じたものであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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